占い


易学(えきがく)とは、人には人生の波があり、もしあなたが人生の波にのまれ、海の底に沈んだ時、力をたくわえて、次にくる盛運の波、天の時(チャンス)を前もって予知する術です。万法堂では、天の時を知る為、恋愛・結婚・健康・仕事・幸運をつかむ為に六十四翔け卦の「易経」を勉強します。 


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易学は、今から約2300年以上前の楚で春秋戦国時代に始められたという伝説を持つ中国の占術で、断易(だんえき)・納甲易・鬼谷易(きこくえき)・漢易・三文易とも呼ばれています。

日本では室町時代に伝わり、江戸時代後期から明治にかけて多くの研究者が現れ、確かな占術として広く普及・研究されるようになりました。

易には、以下の特徴が挙げられます。


  • 占事の吉凶、成敗、得失、禍福がはっきり出るため判断法が非常にやさしい

  • あらゆる占段ができる

  • 時期(応期)の判断が容易にできる

  • 占いで芳しくない結果が出たとしても、当事者にとって有利な対処策を考えることができる


易の発祥の地、中国に於いても、その近代的占法としての評価が極めて高い占術です。
この五行易を習得なされば、あなたがこれから生きていく上での力強い支柱となり、 将来、運命の岐路に直面した時にもご自分の判断で、右か左か・凶か吉かを確実にキャッチすることができるでしょう。
また、日本断易学会の免許(坤援・乾援・象範・儀範・極範)を取得することも可能です。


易という占いについて看板などで見かけたことがある人も多いでしょう。

しかし易そのものについて詳しく知る人は少ないかもしれません。

易とは、古代中国から伝わる儒教の経典「易経」から来ています。易経は森羅万象を捉えたもので、すべての要素を「大極」それから「陰と陽」の二つにわけ、さらに「八卦」という8つの要素に分けます。

「八卦」は、相撲の「はっけよい」や「当たるも八卦当たらぬも八卦」という言葉でもおなじみ。

占うときには八卦と八卦を組み合わせた「六十四卦」という要素を使うのが一般的です。

易占いでは、筮竹(ぜいちく)という竹ひごのような棒を50本使って占います。

占い師の小さなテーブルに棒の束が立てて置いてあるものといえば易占いのイメージが湧くのではないでしょうか。


また北斗占い師学院は、易学の中にある梅花心易・六壬・奇門遁甲・万年暦を主に使って占いします。


◉梅花心易(ばいかしんえき)

易は通常50本の筮竹を使って占いますが、梅花心易はいっさい道具を使いません。占おうとした時の周辺の様子から、手がかりを得て占います。

日付、年齢、物の数などから計算をして答えを導きます。

例えば日付からならば、2000年1月2日3時を例に取ると、(2000+1+2)/8の余り3と、(2000+1+2+3)/8の余り6、(2000+1+2+3)/6の余り2、から易の答えを得ます。この場合は火地晋の二爻変となります。解釈はまず五行から全体の吉凶の判断します。それから細部の検討に進みます。

五行易と周易を兼ねそろえた占い方です。


また梅花心易には、こんな逸話があります。

ある日ネズミがうるさいので陶製の枕を投げつけました。割れた枕の破片をよく見ると「卯年4月14日、巳の時にネズミを見て破れる」と書かれていました。

この予言の不思議さに引かれ、邵康節は枕を作った工場に行きます。すると、むかし周易の本を持った老人が来て、しばらく休んでいったことがあるので、おそらくその老人のしたことでしょう、と老人の住まいを教えられます。

老人を訪ねてみると、すでに亡くなっていました。しかし「いずれ賢者が訪ねて来るだろう。その時にこの本を・・・」との遺言を伝えられ、易の本を手に入れます。そして、この本を元に研究を重ね、完成した易が梅花心易と伝えられています。

梅花心易の名前は、"梅を観ていた時、二羽の雀が枝を争う姿を見て、翌日の夕方に隣の娘が梅の枝を折ろうとして木から落ち、ケガをすることを推測した"この占例から後世に付けられた名前です。

占例を余りにも省略して書いたので、なぜ例題になる程の事かと思われるでしょうが、答えの導き方が、五行に置き換えた場合の関わりと、個々の要素の解釈とが上手に使われていて、典型的なお手本になる解釈なのです。

易は自然界の本質や変化、現象を記号化して説明したものです。梅花心易は占う方法としては究極ともいえる手法ですが、どの数が答えを得るのに最適な数であるか、それを見定めるところに難しさがあります。筮竹を使う方法に比べ、はるかに占者の資質と研鑽が要求されます。


◉六壬(りくじん)

六壬は卜占の一種で、中国の漢の時代初めには、既にその原型が完成していたと考えられる、非常に古い起源を持つ占術です。

その時々の具体的な問題を占うための卜占術の一つで、西洋占星術のホラリーに相当します。伝説では、中国の軍師として有名な諸葛孔明は六壬神課の達人でもあったと伝えられています。

日本においても平安から鎌倉時代にかけて、陰陽師にとって必須の占術でした。

陰陽師として名高い安倍晴明は、子孫のために「占事略决」という六壬神課の解説書を残しています。

六壬では占いの依頼のあった日時を基にして、天文と干支による占いを組み合わせて判断します。


特に自分と相手という二者の関係を判断することに優れていて、相手の気質や自分と相手の関係、そして、その帰趨を的確に占うことができます。


また六壬神課は失物占や射覆(せきふ)占に強いことでも知られています。

失くした物が出るのか出ないのか、盗られたのか、単にどこかに置き忘れたのか、出る場合はどのような所を探せば良いのか、自分から見てどの方角にありそうか、などを的確に占うことができます。

悩みや問題が発生し、それを解決したいと思った時(年月日時)に盤を作り、それと干支(十干と十二支)を組み合わせて解決方法を導き出す占いです。


奇門遁甲(きもんとんこう)

奇門遁甲も、中国から発展してきた占術です。「式占」の一種で、「六壬式」「太乙式」と合わせて「三式」の一つであり、遁甲式(とんこうしき)とも呼ばれています。

奇門遁甲の創始伝説によると黄帝が蚩尤と戦っていた時に天帝から授けられたとされています。奇門遁甲を解説した詩賦である煙波釣叟賦では周の呂尚や前漢の張良によって作盤方法の整理が行われたとされます。


二十四節気や干支から算出される遁甲局数を基にして遁甲盤を作成して占います。

このとき奇門遁甲用の式盤を使用することがあります。

遁甲盤の構成要素の一つである八門を重要視することから八門遁甲(はちもんとんこう)とも呼ばれています。


奇門遁甲について解説した最古の文献は、中国唐代に李筌によって編纂された張良の口訣を伝えるとされる『陰符経註』や、兵書の『神機制敵太白陰經』(以下、『太白陰経』)に付けられた『巻九遁甲』ではあります。

太白陰経の『巻九遁甲』では月将の名に『徴明』が見えるが、これは北宋の仁宗以前に使用されていたものではあります。また時刻の呼び方においても「夜半」「鶏鳴」といった十二時辰が採用されています。

これらから『太白陰経遁甲巻』は、古い時代の記憶を伝えていると推測できます。また研究者の湯浅邦弘は、太白陰経の遁甲巻は李筌の合理主義と矛盾せず、執筆当初から存在しており後世の付加ではないとしています。


◉万年暦(まんねんごよみ)

万年暦は中国の古代伝説の中で最も古い太陽暦で、万年暦の名称は商の時代の万年という人に由来して、彼はこの暦の編纂者で、彼の功績を記念するためにこの暦を万年暦と命名して、万年暦は一定の時間範囲内の具体的な新暦と陰暦の日付を記録する「カレンダー」です。


昔、万年が山に登って薪を取りに行き、疲れて木陰に座って休んでいると、木陰の移動が彼を啓発しました。そこで彼は太陽の影を測定し、日付を記録するための夜計を設計しました。しかし弊害は、曇りや雨、霧の多い天気が測定に影響を与えました。その後、崖に滴り落ちた泉が彼の興味を引き起こし、彼はまた5階建ての漏壺を作りました。

時間が経つにつれて、360日ごとに1日の長さが繰り返されることに気づきました。当時の皇帝は祖乙と呼ばれ、予想外の天気に感動して悩みました。万年が知った後、日夜と漏壺を持って皇帝に会いに行き、日月の運行の原理を説明しました。祖乙は聞いて認めました。

そこで、彼は万年を残し、天壇の前に日夜台と漏壺亭を建て、12人の童子を万年に派遣しました。

祖儀は万年に対して、「日月の法則を測って、朝夕の正確な時間を計算して、天下の庶民のためにカレンダーを作ってほしい」と言いました。

来る日も来る日も。長い観測と綿密な計算を経て、万年はついに正確な太陽暦を制定できました。後継の国君に太陽暦を渡すと、万年はすでに白髪の老人になりました。

皇帝は感銘を受け、万年の成果を記念するために太陽暦を「万年暦」と命名し、万年を日月寿星に封じました。


現代の万年暦は必要な人が検索して使用するのに便利で、万年はただ1種の象徴で、時間の幅が大きいことを表して、現代の万年暦は西暦、旧暦、干支暦などの複数の暦を同時に表示することができ、さらに黄暦に関する吉凶忌み、祝日、注意などの多機能情報を含むことができ、人々が検索して使用するのに非常に便利です。


北斗占い師学院は万年暦の計算法を使った擇日学でお客様に開運・相性・日の吉凶などを伝えることができます。